最近の読書

最近はflierというアプリを使って本の要約を読んでる。

本1冊読むのは骨が折れるし、飽き性な自分は途中で飽きてしまう。その点要約アプリを使えばイイタイコトがまとまっているので5分もあれば全部読んだ気になる。

これだけじゃダメな気がするけど何となくわかった気になるから気に入ってる。

他に良いことといえば記憶を外在化しやすいということが挙げられる。短い要約なので記憶に留まりやすく、それの中で大事だと思ったことをevernoteにすぐまとめることができる。1冊読むと感想や考えたことをまとめるのに時間がかかるし、最初の言われてたことを忘れる可能性もある。そういった点でもとても便利に感じている。

扱ってる本のほとんどがビジネス本なので、読みたい本がないことも往々にあるが、それは今後に期待したい。

 

 

ありがとう

とあるど田舎で地域医療実習2日目。

そこの所長の先生の講義は長いけど大事なことを言っていると思ったので、ここに覚え書き。

いつも不機嫌な寝たきり患者が、初めて行ったデイサービスで『ありがとう』と言われ機嫌を取り戻す。『ありがとう』がその老人にとって生きがいだったと。

僕は生まれて25年間生きがいといったものをしっかり実感した記憶がない。なにかしら他人に与えたという記憶もない。つまり『ありがとう』といわれるような何か(ボランティアや気を利かせて他人に何かプレゼントするとか)をしたことがほとんどない。むしろ自分で避けていたような気がする。なぜならそうすることで他人からの見返りを求めている気がするからだ。というか、自分なら求めてしまうと思ったからだ。自分はできた人間じゃないのに、他人に褒められるなんて間違ってると思ってしまう。つくづく自分に自信がない人間なのだなと痛感した。

ありがとうの一言のために頑張れるなら医者は最高の職業のように感じた。そして、自分はその一言をもらうように努力するべきなのかもしれない。自信が奢りにならないように気をつけないといけないが。

『最善』とは

ひと昔前は医者の言うことは絶対だった。って医者の大先輩から聞かされることが多い。

専門家の言うことは正しい(ことが多い)っていうのは真っ当な意見な気がする。でもそれが患者にとって『最善』なのかは別問題だ。

緩和ケア科の実習の中で改めてそのように感じる。

医者は1パーセントでも改善する見込みがあれば治療しようとする。それが医者の患者に対するベストを尽くす態度だからだ。しかし実際はその治療の中には患者に対して不利益を与えるものも含まれている。副作用のキツイ化学療法や侵襲性の高い外科手術などがこれにあたる。

基本的には患者の幸せのために医者は存在し、そのためにベストを尽くす。でも、『ベストを尽くす』=『治療行為を行う』になっている医者が多いんじゃないかと思う。なぜなら全ての治療行為は病態を改善する可能性が多かれ少なかれあるからだ。よって病気の患者に対しなにもしないということは医者としてかなり勇気のいることであると感じる。とりあえず○○してしばらく様子見しよう。こういう場面はよく見る。でも実際患者にとっての利益になるのであろうか。患者が先生もうシンドイから治療はやめてくれって言われて本当にやめることができるのだろうか。

この問題の結論は出てない。

実際患者の治療で患者に起きることはやってみないとわからん(患者も医者も)からである。

 

緩和ケア科では患者の命をどう終えるかということだけではなく、患者に残された生命をどれだけ有意義に過ごすかということに着目して医療を行なっている。

自分が行ってるところはボランティアさんが患者にお茶お菓子を出したり、患者と絵葉書を一緒につくったり、病室に花を持ってきたり。少しでも生きがいになる何かを作ってくれる。

患者にとって何かプラスになれば、これから待ち受ける辛いことも少し楽に生きていける。もしかするとそういった小さな『善』が患者にとっての『最善』なのかもしれない。って思ったり思わなかったり。

共通項

いろいろ勉強していると思いがけないところに共通項を見つけることができる。見つけられると嬉しいし、それによって両者の相違点も意識することができ違う景色が見える。またすごく覚えやすい。テコムの某先生もやたら比較させて板書するけど、共通項と相違点を意識させて覚えやすくなることを利用しているのだなって今更ながら気づいた。

なるべく共通項を見つけたらメモしといたら何か新しいアイディアが生まれるかもしれない

仏教

仏教の考え方はいつもその通りだと思うことが多い。だから仏の教えを読むのは結構好きだ。そんな仏教の教えの中に不殺生戒というものがある。これは悟りを求める修行する上で守るべき5つの戒律のうちの一つである。読んで字のごとく「殺生はするな」という意味だ。

 仏陀は雨期になれば虫を踏みつぶさないようにと外出は控え、安居(あんご)という聞法会を開いた。乾期になり、お釈迦様が各地へ御説法に向かわれる際には、すり足で歩いて大地の生き物を殺さない様に気をつけていた。水を飲むときでさえ布で濾過していたそうだ。

(仏教の不殺生(アヒンサー)の教えは 生命(いのち)あるものを殺すな というだけでなく 自他の生命(いのち)を生かす、大切に生きるということである真宗大谷派 福浄寺 『過去の今月の言葉』参照)

ただし、現代社会の生活は生き物の殺生無しでは成り立たない。食べることももちろんそうだが、科学の発展のために行われている動物実験もそんな殺生のカタチの一つだ。食べることに関しては僕は仕方のないことだと思う。どんだけガマンできても食べないと亡くなってしまうのでこの殺生はある意味必要悪だと思う。しかし、動物実験はどうなんだろうか。いくら科学の発展のためとはいえ、生まれてきた動物や植物たちを殺す理由にはならないと思う。なぜならそれは必ずしも人間の命には関わらないからだ。もちろん、新薬の開発によって助かる命もあるからそういう意味では必要かもしれないが、健康な人間にとっては薬は必ずしも必要とはいえない。少なくとも命には別状はない。

僕も無駄な殺生はするべきではないと思う。なぜなら生命というものは全て平等であるべきだからだ。たとえゴキブリだとしてもそれは尊い命であって、キリスト教のような人間は偉いという考えは間違っていると思う。科学はキリスト教のような人間本位の思想に基づいて生まれたから仕方のないことなのかもしれないが、人間本位の科学は殺生の無い科学へと変わるべきなのだと思う。まぁたぶん数十年後には動物実験に対する倫理観も変わることだろうと思うがね。

雑多なイデアたち

情報は全て受け取ってるわけではなく、それの中から脳で取捨選択されて取り込まれている。

その取捨選択の基準はなんだろうか

一度もしくは何度かインプットした情報(昔見たことあるなど)

経験値=賢さとはこのことか?

 

普通はそうであるけど→あまりに衝撃度が高いもの(経験したものよりも明らかにかけ離れたもの)、外部の情報が自分の「普通」よりも強ければ優先的に取り込まれる。

それはそのうち「慣れ=経験」として蓄積される。→オトナ化?