決意の夜

取るに足らない感情ほどすぐ浮かぶ。だいたい何も考えてなくボーッとしている時によく浮かんでくる。そんな感情は今日をもって(2016/10/9現在)ネタの大小に限らずメモしていくことにした。なぜならそんな感情こそ「ダイヤの原石」だと思ったからだ。

僕は考えることが好きだ。自分の中で感じた違和感は恰好の考察対象となり得る。よくテレビ報道やニュースでも違和感を感じたりするが、なによりそれが自分の感情であったり感性に対して感じるそれは、格別なご馳走である。なぜ自分がそのように感じたのか考えたりするとその裏に隠された本当の理由なんかが隠されたりするのでたまらない。本当の自分探しってこういうことなのかもなって思う。

そういう感情はやっぱり外からの刺激が無いと生まれてこない。そういう意味で旅行にいったり人と話したり、本読んだりすることは大事なんだなって感じた。何だか今更って感じだけど、無理してでも刺激を受けにいくべきなんだなって再認識した。

そして感じたものをその過程までしっかり書き留めておくこと(出来るなら理由も添えて)、それが今後の自分の糧になるだろうと信じてこれから過ごしていこうと思う。

 

ゲームについて 1

僕はゲームが好きで1日ゲームに時間を費やすこともザラにある。最近スマホでも気軽にできるし(しかも無料で)、若者はやってる人がほとんどだと思う。最近思うのは昔感じてたゲームに対する「恥ずかしさ」はだいぶなくなってきた気がするということだ。

僕が小学生の頃は「ゲーム≒子供の遊び」のイメージが強くて、人前でゲームやってる人は子供みたい≒恥ずかしいみたいな感じがあった(個人的に)。PSPやDS持ったサラリーマンとか電車で見かけると、子供ながらになんだか恥ずかしい気分になってたのを思い出す。

今やスマホでゲームしてる大人なんてアタリマエだし、なんなら子供より大人の方がやってたりする。パズドラ重課金勢はいい歳したおっさんだったりする(必ずしもそうではないが)。

ぼくにとって「決定的」だったのはポケモンGOの爆発的流行である。町にはポケモントレーナーたちが溢れかえり、人気の無いはずの時間帯までケータイを片手に歩き回る人々が物言わず集まってくる。その大半が大学生やサラリーマンであった(経験者は語る)。こんなわかりやすい形でゲームする人が集まる光景を初めてみた。ある意味恐ろしい光景であった。ゲームの浸透とともにゲームに対する恥ずかしさの薄れを示す良い例だと思う。

アーダコーダ色々言ったけど僕も今ではなんの躊躇いもなく電車でゲームしてる。子供たちからみたらどういう風に見えてるのか少し気になる今日この頃です。

 

 

言語化難しい

書きたいこと(アタマん中にあるidea)はモヤモヤあるんだけど、それを整理して文章化するのはかなりエネルギーを使うことだと気づいた。思っていたよりもシンドイ。書いたり消したりの繰り返し。脈絡のない断片的な考えは次々浮かぶけど整理して繋げる作業が難しい。ものを書く人って大変なんだなと思った。

 

頭の中のモノを忘れていく前に整理させていきたいと思うが、そーゆー事でどうにも時間がかかりそうだ。

とりあえず文章として書く事を習慣化させていくことが大切だと思うので少しずつ熟成させながら文章を練り上げていこうと思う。

また断片的な考えを文章化してメモする事も忘れずにしていこう(言い聞かせ)

これ書くのにも一苦労。

 

ブログやってみた

ブログはじめてみた

某先生の影響もあるが、今の思想や考え方などまとまらないアタマんナカを言語化しておくことは大事なことだと思う今日この頃。

基本捻くれものなんでへんてこりんな事言うと思うけどそこんとこヨロシク。

あと文書ヘタクソなんでそこんとこもヨロシク。